
目の焦点がだんだん合わなくなってくる。そうなってから、違うものが見えてくる。
撮影助手の真似事をして、自然観察指導員SとフォトグラファーKについて歩く。毎度のことながら、森に入ると見つめる対象が急にサイズダウンする。色も、微妙さの難易度が上がる。似通った色の中に紛れるように蝶がいる、木肌に紛れるように蝉がいる。自分がいま何を見ているのか、しょっちゅう分からなくなる。
アリの一匹いっぴきを見る目つきになると、自然に歩がゆるみ、さっきまでとは違う時間に入ってしまう。おーい、ここに蝉の抜け殻があるよ。ふたりに声をかける。シャッターを切っていたKが遅れて振り返り、えー、どこでしょう、としばらく目を凝らす。そうしている間にもSが、あらこんなところにこんな虫が、と静かに言う。えー、どこでしょう。これを繰り返す我々。
何十メートルかの短い距離。それを気づくと1時間以上かけてそろそろと移動している。ぜんぜん、そんな時間が経った覚えがない。見るものがありすぎる。「自然観察」という言葉を使えなかったら、わたしたちは「不審者」になるんでしょうなあ。
「それは花でも実でもなく虫こぶというものです」とか、「そのようなスポットに止まっている蝉は産卵中なんだよ」とか、「カブトムシをそんな風にふたつにちぎったのはカラスでしょうね」とか、「そこにばかりアリが多いのはその植物の樹液がとても甘いからなんだよ」とか、「その葉はざらざらしているので、かつてはお蚕のまゆの糸口を探り出すのに使ったんだってよ」とか――炎天下の緑陰で、そういう話をずーっとずーっと聞いていられる気持ちになってくる。
2歳くらいのときの、しゃがんで、ただ何かをじっと眺めるだけだった自分。そういう自分が、相生山の木々の向こうから、こっちを見ているみたいな時間だった。
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